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ー再生医療用iPS細胞ストックについてのお話ー 〜骨髄バンクの協力〜

ー再生医療用iPS細胞ストックについてのお話ー
〜骨髄バンクの協力〜

これはまた歴史が変わっていきますね!

人類がコツコツと積み上げてきてくれたものが、ある日一気にたくさんの人を救う手段になっていきます。

10年前は生きることができなかった命にもう一度火を灯せる日が訪れる。

ぼくなんかはそのお陰でまた新しい曲を書かせてもらえて、もしかしたら誰かの心にもう一度火を灯せられるかもしれないなんてですね。。

そうやって考えるとiPS細胞にはほんと期待してます!

ご興味のある方は是非、『再生医療用iPS細胞ストックへの協力についてQ&A』をお読みになってください。

そこにお問い合わせの電話やメールアドレスの記載もあります。
今回のお話は骨髄バンクの土壌をiPS細胞のストックにも活かそうというお話なのだと思いますがそうやってその活動の成果が他のことにも活用されるのは素晴らしいことだと思います。

青森で開催された骨髄バンクの全国会議に5,6年前にご一緒した福代さんからのシェアーです^^

その時までにぼくはすでに三回、市川團十郎先生にお会いしていて、お言葉もかけてくださっていたので、またお会いできると思って勇んで青森まで行ったのですがもう体調を崩されてたのだと思います。

その会議には参加されずその後間もなくお亡くなりになりました。
團十郎さんはちょうどその頃全国骨髄バンク推進連絡協議会の会長をされてて骨髄バンクの活動を盛り上げてくれていたと記憶してます。

ある意味、みんなの希望の星でしたね^^

山中先生のメッセージも是非!!

日本骨髄バンクの「医療用iPS細胞ストック構築に関する研究」への協力に関するQ&A集に詳しく載っています。
http://www.jmdp.or.jp/sp/ips-support/

すいません!シェアだとあまり拡散しないかもしれないのでオリジナルも作ってしまいました。。

紛らわしくてすいません^^;

A-HEAD RECORDS 堤秀樹

ー諦めない魂よ永遠にー

本日はFUKUOKA Future Music Academyの第2週でまたたくさんの音楽経験を積んでもらいましたが、そんな本日のPM10:00にぼくの東京時代に長い時間をご一緒した想い出深い方が出ますので、お暇な方は是非見てやってください。

しかし川上もそろそろ40代とは驚きだ。。

そら年とるはずだわw

彼女に教えたことは音楽だけど、教わったことはたくさんある。

けど強いて言うなら諦めないってことかな。

「もう終わったかな」と思ってたら、ある日不死鳥のように蘇った人たちを僕はたくさん見てきた。

彼女が芥川賞を取った瞬間、音楽人達はいろんな意味でぶっとんだ!

そしてこういう根性の決まった方々とご一緒できて僕の人生は幸せだったけど、これからもっともっと幸せになっていけると思ってる。

でも結局そう思えるのは彼らのおかげだね。

益々のご活躍を!!

A-HEAD RECORDS 堤秀樹

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SWITCH インタビュー達人達「新海誠 × 川上未映子」NHK-Eテレ

2016年9月10日(土)午後10時~午後11時

再放送予定 2016年9月15日(木)午前0時00分~午前1時00分

http://www4.nhk.or.jp/switch-int/x/2016-09-10/31/13073/2037125/

ー映像と音楽 作品09ー2007年12月 〜BAKUHATSU!!MAN OFFICIAL WEB CM – Introducing Mr. DynaMite〜

ー映像と音楽 作品09ー2007年12月
〜BAKUHATSU!!MAN OFFICIAL WEB CM – Introducing Mr. DynaMite〜

映像と音楽の続きです。

2008.1.15にはじめて発信したアート異種格闘技セッションを当時WEB TVと位置付けてやっていきましたがそれに先立ってのこれは宣伝用の映像。

ビクター青山スタジオの隣の自社ビルにあった当時関ジャニ∞のプロデューサーであった野澤 孝智氏とぼくとで動かしていた、青山ブランチスタジオのゴージャスな(グランドピアノまである)リビングで撮影されました。

現在、OLDCODEXで大活躍しているPainter YORKE.とDJの世界で絶大な影響力をもつDJ.Hangerの二人をメインキャストに様々なジャンルのアーティストたちとコラボレートしたWEB番組です。

これは今でもなかなかいけてると思ってますが、音楽もガムラン的なものをコラージュして成立させていきました。

映像に対する音楽のアプローチ、もしくは音楽に対する映像のアプローチ。

この極意をITのみなさんにお伝えする日も近そうです!

この頃はこれからWEBに動画が増えてくることを見据えて10年先をやってきましたが、これからは1,2年先、ほんの少し先をいくA-HEAD RECORDSでありたいと願いますw。

ぼくとコラボレートしたいと思ってくれた映像作家さん、WEBディレクターさん、メッセージお待ちしていますね。

一緒にかっこいいやつをやりましょっ♪

A-HEAD RECORDS 堤秀樹

BAKUHATSU!!MAN OFFICIAL WEB CM – Introducing Mr. DynaMite

カゲロウ SPICECONTOROL くん、お疲れよ!!いつもありがとう;)

カゲロウ SPICECONTOROL くん、お疲れよ!!いつもありがとう;)

連続三日のFUKUOKA Future Music Academy(FFMA)の講義が先ほど終わり、かあちゃんのカレーを帰宅して掻き込みやっと今くつろいでます^^

しかし、みんなよく来てくれました!

大分や八女からも通ってくれる方もいてほんとに恐縮だけど改善点はまだまだあれどこれからもっともっと有意義な場所にしていけるように感じたので及第点は頂けたんじゃないかと思ってますがいかがでしたか?

3コマ一セット5時間のメニューを4回やったので3日で20時間教え続けたけど辛うじて元気ですw

またすぐに来週のメニュー作り(毎回新しいコンテンツを作っていきます)に励みながら今週はまた二つの音楽プロジェクトが始動していきます^^;

ひとつは筑豊のちいさな町の子供たちと一緒に曲を作って、レコーディングを体験してもらうのですが自分たちの町を自分たちの歌で盛り上げてもらいたいという主旨の企画をコアラさんチームと立てさせてもらいました。

移住定住プロジェクトは昨今様々ありますが子供たちが一緒に盛り上げていくプロジェクトを是非愉しみにしていただきたいと思います。

もうひとつはWEB関係になりますがこれがまた素敵な提案をいただいて脳味噌をフル回転にしたいと考えております♪

そして最後に博多駅で偶然目があって少しお話しさせてもらったFumikaさんのバイバイがそれにしても可愛すぎた件がどうしても忘れられない今夜であります。。

おやすみなさいw

A-HEAD RECORDS 堤秀樹

ー「学ぶ(ことができる)力」の三ヶ条ー

ー「学ぶ(ことができる)力」の三ヶ条ー

これから就寝して明日の朝は早くからスタジオに行き、ずっとやりたいと思ってきた音楽アカデミーをスタートさせることになります。

数日前に友人のJALの武知さんからメッセージを頂いていたのだけど準備でいっぱいいっぱいでやっと先ほど読ましていただきました。

武知さん、いつも大事なところでメッセージ頂けて感謝してます!

ここに書いてある3つの「学ぶ(ことができる)力」に必要な条件はどんな時もぼくは満たせてたんじゃないかという自負があります。

むしろ今が一番そうなのかもしれません。

それは内田樹氏の著作日本辺境論の中の一文。

日本の学力低下から真の学力とはなんですか?につながって行きます。

第一に、「自分は学ばなければならない」という己の無知についての痛切な自覚があること。
第二に、「あ、この人が私の師だ」と直感できること。
第三に、その「師」を教える気にさせるひろびろとした開放性。

今日からまた新しい学びの旅に出て行きます。

『仕事を作って心をつくる。

仕事を済ませて心を澄ませる』

お時間許す方は素晴らしい考えなのでご一読を。

A-HEAD RECORDS 堤秀樹

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「学ぶ力」という文章を書きました。中学二年生用の国語の教科書のために書き下ろしたものです。本が届いて、読んでみたら、なかなか「なるほど」と思うことが書いてあったので(自分で言うなよな)、ここに再録することにします。
中学二年生になったつもりで読んでね。
「学ぶ力」
「学ぶ力」
日本の子どもたちの学力が低下していると言われることがあります。そんなことを言われるといい気分がしないでしょう。わたしが、中学生だとしても、新聞記事やテレビのニュースでそのようなことを聞かされたら、おもしろくありません。しかし、この機会に、少しだけ気を鎮めて、「学力が低下した」とはどういうことなのか、考えてみましょう。
そもそも、低下したとされている「学力」とは、何を指しているのでしょうか。「学力って、試験の点数のことでしょう」と答える人がたぶんほとんどだと思います。ほんとうにそうでしょうか。「学力」というのは 「試験の点数」のことなのでしょうか。わたしはそうは思いません。
試験の点数は数値です。数値ならば、他の人と比べたり、個人の経年変化をみるうえでは参考になります。でも、学力とはそのような数値だけでとらえるものではありません。「学力」という言葉をよく見てください。訓読みをしたら「学ぶ力」になります。わたしは学力を「学ぶことができる力」、「学べる力」としてとらえるべきだと考えています。数値として示して、他人と比較したり、順位をつけたりするものではない。わたしはそう思います。
例えば、ここに「消化力」が強い人がいるとしましょう。ご飯をお腹いっぱいに詰め込んでも、食休みもしないで、すぐに次の活動に取りかかれる人は間違いなく「消化力が強い」といえます。「消化力が強いです」と人にも自慢できます。しかし、それを点数化して他人と比べたりしようとはしないはずです。
「睡眠力」や、「自然治癒力」というものも、同様のものだと思います。どんなときでもベッドに潜り込んだら、数秒で熟睡状態に入れる人は睡眠力が高いといえるでしょう。この力は健康維持のためにもストレスを軽減するうえでも、きわだって有用ですが、睡眠力を他人と比較して自慢したり、順位をつけたりすることはふつうしません。
怪我をしてもすぐに傷口がふさがってしまう自然治癒力も生きるうえでは、おそらく学力以上に重要な力でしょうが、その力も他人と比較するものではありません。わたしは「学力」もそういう能力と同じものではないかと思うのです。
「学ぶ力」は他人と比べるものではなく、個人的なものだと思います。「学ぶ」ということに対して、どれくらい集中し、夢中になれるか、その強度や深度を評するためにこそ「学力」という言葉を用いるべきではないでしょうか。そして、それは消化力や睡眠力と同じように、「昨日の自分と比べたとき」の変化が問題なのだと思います。昨日よりも消化がいいかどうか、一週間前よりも寝つきがよいかどうか、一年前よりも傷の治りが早いかどうか。その時間的変化を点検したときにはじめて、自分の身に「何か」が起きていることがわかります。もし「力」が伸びているなら、それは今の生き方が正しいということですし、「力」が落ちていれば、それは今の生き方のどこかに問題があるということです。
人間が生きてゆくためにほんとうに必要な「力」についての情報は、他人と比較したときの優劣ではなく、「昨日の自分」と比べたときの「力」の変化についての情報なのです。そのことをあまりに多くの人が忘れているようなので、ここに声を大にして言っておきたいと思います。自分の「力」の微細な変化まで感知されている限り、わたしたちは自分の生き方の適不適を判定し、修正を加えることができます。
「学ぶ力」もそのような時間の中での変化のうちにおいてのみ意味をもつ指標だと私は思います。その上で「学ぶ力」とはどういう条件で「伸びる」ものなのか、それを具体的にみてみましょう。
「学ぶ力が伸びる」ための第一の条件は、自分には「まだまだ学ばなければならないことがたくさんある」という「学び足りなさ」の自覚があること。無知の自覚といってもよい。これが第一です。
「私はもう知るべきことはみな知っているので、これ以上学ぶことはない」と思っている人には「学ぶ力」がありません。
こう人が、本来の意味での「学力がない人」だとわたしは思います。ものごとに興味や関心を示さず、人の話に耳を傾けないような人は、どんなに社会的な地位が高くても、有名な人であっても「学力のない人」です。
第二の条件は、教えてくれる「師(先生)」を自ら見つけようとすること。
学ぶべきことがあるのはわかっているのだけれど、だれに教わったらいいのかわからない、という人は残念ながら「学力がない」人です。いくら意欲があっても、これができないと学びは始まりません。
ここでいう「師」とは、別に学校の先生である必要はありません。書物を読んで、「あ、この人を師匠と呼ぼう」と思って、会ったことのない人を「師」に見立てることも可能です(だから、会っても言葉が通じない外国の人だって、亡くなった人だって、「師」にしていいのです)。街行く人の中に、ふとそのたたずまいに「何か光るもの」があると思われた人を、瞬間的に「師」に見立てて、その人から学ぶということでももちろん構いません。生きて暮らしていれば、至る所に師あり、ということになります。ただし、そのためには日頃からいつもアンテナの感度を上げて、「師を求めるセンサー」を機能させていることが必要です。
第三の条件、それは「教えてくれる人を『その気』にさせること」です。
こちらには学ぶ気がある。師には「教えるべき何か」があるとします。条件が二つ揃いました。しかし、それだけでは学びは起動しません。もう一つ、師が「教える気」になる必要があります。
昔から、師弟関係を描いた物語には、必ず「入門」をめぐるエピソードがあります。何か(武芸の奥義など)を学びたいと思っていた者が、達人に弟子入りしようとするのですが、「だめだ」とすげなく断られる。それでもあきらめずについていって、様々な試練の末に、それでもどうしても教わりたいという気持ちが本気であるということが伝わると、「しかたがない。弟子にしてやろう」ということになる。そのような話は数多くあります。
では、どのようにしたら人は「大切なことを教えてもいい」という気になるのでしょう。
例えば「先生、これだけ払うから、その分教えてください」といって札束を積み上げるような者は、ふつう弟子にしてもらえません。師を利益誘導したり、おだてたりしてもだめです。だいたい、金銭で態度が変わったり、ちやほやされると舞い上がったりするような人間は「師」として尊敬する気にこちらの方がなれません。
師を教える気にさせるのは、「お願いします」という弟子のまっすぐな気持ち、師を見上げる真剣なまなざしだけです。これはあらゆる「弟子入り物語」に共通するパターンです。このとき、弟子の側の才能や経験などは、問題になりません。なまじ経験があって、「わたしはこのようなことを、こういうふうな方法で習いたい」というような注文を師に向かってつけるようなことをしたら、これもやはり弟子にはしてもらえません。それよりは、真っ白な状態がいい。まだ何も書いてないところに、白い紙に黒々と墨のあとを残すように、どんなこともどんどん吸収するような、学ぶ側の「無垢さ」、師の教えることはなんでも吸収しますという「開放性」、それが「師をその気にさせる」ための力であり、弟子の構えです。たとえ、書物の中の実際に会うことができない師に対しても、この関係は同様です。同じ本を読んでいても、教えてもらえる人と、もらえない人がいるのです。
「学ぶ(ことができる)力」に必要なのは、この三つです。繰り返します。
第一に、「自分は学ばなければならない」という己の無知についての痛切な自覚があること。
第二に、「あ、この人が私の師だ」と直感できること。
第三に、その「師」を教える気にさせるひろびろとした開放性。
この三つの条件をひとことで言い表すと、「わたしは学びたいのです。先生、どうか教えてください」というセンテンスになります。
数値で表せる成績や点数などの問題ではなく、たったこれだけの言葉。これがわたしの考える「学力」です。このセンテンスを素直に、はっきりと口に出せる人は、もうその段階で「学力のある人」です。
逆に、どれほど知識があろうと、技術があろうと、このひとことを口にできない人は「学力がない人」です。それは英語ができないとか、数式を知らないとか、そういうことではありません。「学びたいのです。先生、教えてください。」という簡単な言葉を口にしようとしない。その言葉を口にすると、とても「損をした」ような気分になるので、できることなら、一生そんな台詞は言わずに済ませたい。だれかにものを頼むなんて「借り」ができるみたいで嫌だ。そういうふうに思う自分を「プライドが高い」とか「気骨がある」と思っている。
それが「学力低下」という事態の本質だろうとわたしは思っています。
自分の「学ぶ力」をどう伸ばすか、その答えはもうお示ししました。みなさんの健闘を祈ります。