シンクロニシティ

ーシンクロニシティー

篠原さん、素敵な文章をありがとうございます!!

そしてもうひとつ、志田歩さんと言う方の著作「玉置浩二 幸せになるために生まれてきたんだから」の編集者のかたの文章も。

https://www.1101.com/editor/2006-05-23.html

本物を目指した先にはたくさんの苦労もあったでしょうけど、期が熟した時には押しも押されぬ実力と評価が待ってますね。

ぼくもそういう生き方をとても美しいと感じます。

そんなかたが増えていけばきっと日本もまた誇り高き日本になっていくのでしょう。

宇宙が味方してくれるような生き方を!

自分に言っておりますw

A-HEAD RECORDS 堤秀樹

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玉置浩二が立派だなあと思うのは、ASKAの薬物疑惑が報じられた昨年秋、同期ながらそれまで付き合いのほとんどなかったASKAに初めてアプローチしたというところだ。ASKAの薬物中毒を誰もが疑い、櫛の歯が抜けるように仲間たちが遠ざかるなかで、薬物中毒であろうがなかろうが「ASKAを勇気づけるなら今だ」と思ったのだろう。度量の大きな、温かい人である。

ぼくは玉置浩二とはほとんど無縁だった。その音楽もまともに聴いたことはなかった。7〜8年ほど前、ちょっとした縁があって、安全地帯からソロに至るほとんどの作品をあらためて聴き直してみたら、日本に「AOR」というジャンルがあるなら、この人はパイオニアの一人ではないか、と思うようになった。

北海道でくすぶっていた安全地帯を東京に呼び寄せたのは井上陽水である(81年)。バックバンドに採用し、アドバイスを与え、彼らのデビューを後押しした。ちょっとした冒険だったが、安全地帯はその期待に見事に応えた。井上陽水は大した目利きである。

が、陽水も安全地帯に助けられた、と思う。安全地帯に出会う直前の井上陽水には迷いがあったはずである。高中正義とのジョイント・ライブの音源(80年)を聴いてみると、当時の井上陽水はまるで山下達郎である。山下達郎と同じ土俵で勝負するのはさしもの陽水でも難しいはずだが、彼のステージは明らかに達郎を意識した歌唱やアレンジを指向していた。他方、80年にリリースされた『Every Night』のサウンドは、ナイアガラ/ティンパン系を意識したものだった。鈴木茂や井上鑑のアレンジに活路を見いだそうとしていて、どことなくぎこちない。陽水自身も不安だったに違いない。いろいろ試行錯誤しても、正解がなかなか見えてこなかったからである。

安全地帯や玉置浩二と出会うことで、陽水は不安を克服し、テクノ・パンク・ニューウェイブが席巻する80年代前半をやり過ごすことができたのではないか。年若い才能との出会いで新しい自分に出会うこともできたのではないか。そんなふうに思える。

陽水と安全地帯とコラボは、「ワインレッドの心」(83年)を経て「夏の終わりのハーモニー」(86年)に結実するが、この曲はいつ聴いても素晴らしい。日本ポップス史上に燦然と輝く名曲のひとつである。

人は人を助け、人は人に助けられて生きている。お互いに学びあって生きている。それは「損得」を抜きにした関係である。「損得」も必要だが、それだけが生きる道ではない。玉置浩二の差し伸べた手が、ASKAに届くことを願っている。

※リンクの動画は、86年夏の神宮球場における陽水+安全地帯のライブ映像。このステージで「夏の終わりのハーモニー」が初めて公開された。